雑記|秋ですね



みなさんいかがお過ごしでしょうか、ヨシフミです!

台風24号こわいですね……。
一応の準備はしたものの、来てしまえばこればっかりはどうしようもないですから、今から心配です。

これ以降もずっとこんな調子なのかなあ。
みなさんも気を付けてください;;;

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最近、自然災害が各地で連続していますね。

その被害のようすを見て、私はどういう漫画を描いたらいいのかなーってずっと考えていて……。

人が亡くなるシーンを描くことについて今まで何も感じていなかったわけじゃないですし、自分なりに真剣に考えてきましたけど、今改めてその問題に直面してます。



ちょっと本題からそれて、ついきのう終わった朝ドラの話になるんですけど。

こう……終盤にかけてはですね、あの震災がまるで踏み台のように使われているような
印象を受けました。

「人は突然に亡くなる」
「誰の大切な人であろうとも」
「だから今日この日を大切に生きる」
「生き残った我々にできること」……

たしかにそういうメッセージを受け取ることもできます。
私もそこには共感できました。

じゃあどうして「踏み台にされている」と感じたのか。考えました。

……たぶんですけど、主人公が友人を喪う理由が「震災」である必要性をまったく感じなかったからだろう、と自分では結論付けました。


経験した人にとっては忘れがたく、そして誰にとっても悲劇として思い出される、あれはそういう出来事です。

たしかに、朝ドラであの日のこと、それからのこと、今も続いている苦しみについて、ありのままを再現することがいいことだとは思いません。

しかしそれ以上に、「誰もが共感できる悲劇」として震災を利用して、真実味のない改変を加えて描くことがどれだけ観る人を傷つけ憤らせるのか、それがよく分かった最終週でした。

これは決して震災に限った話ではなく、物語に展開と感動(?)をもたらすためだけに実在の「死」を利用するのはいかがなものかと考えさせられた ということです。



で、ここからはまた自分の話になります。

私は漫画で、差別とか種々の不和とか、大事な人が突然に亡くなってしまう瞬間のことも
積極的に描こうと思ってました。

それは私が楽しいからとか、虐げられてる人を見るのが好きだからとか、いわゆる「死ネタ(この呼び方も嫌いだが)」……「死によって永遠に断絶される関係性」に萌えを感じるからではなく、むしろ他人の痛みや苦しみをコンテンツ化するその手の行為を嫌うがゆえに、悲しみを賛美せずに描きたいと……そういうつもりでした。

でも、昨今のいろいろをとおして、登場人物を差別の被害者として描くこと、物語のなかで人が亡くなること、間違った関係の中になだれこんでしまう人々を描くこと、それ自体の意味を考え直しています。

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先日パルムドールを受賞した是枝裕和監督の『万引き家族』に対して「犯罪と、それによって繋がれている絆を称賛している」なんていう批判があったと聞き及びました。
(私は全然そうは思いません)

フィクションでノンフィクションな問題を取り扱うことについては、いろんな受け取り方をする人がいるんですよね。

問題提起としての表現がそのまま「特定の人を攻撃している」、「現状を肯定している」
と捉えられてしまうことがある。


それはテーマだけではなく、演出や作劇的な面についても言えることです。

たとえば喫煙者が多くいた時代のお話で、リアリティを演出する小道具として演者が煙草をモクモクやってるとする。

そうすると、観ている人の中には「煙草を肯定するなんて時代遅れ」と捉える人もいるわけです。

そういうのは基本的に作品をメタ的に読解できない受け手の誤解なんだと思います。

(裸身像に「わいせつだ」と服着せたりするのと同じ心理なんですかね。とにかく目の前に出てくのも嫌だっていう……。まぁそう考えるとたしかに共感できなくもないですが)


その誤解に遠慮する必要はないにしても、一方で、さっき例に出した朝ドラのように作家の問題意識の低さ・関心の薄さが作品に表出して誰かを傷つけてしまうのは、やっぱり過ちだと思うんですよね。

こんなふうに言いきるのは、自分がそういうものを作らないようにしようという一種の自戒でもあるんですけど。

趣味とはいえネットを通じて人前に出すわけですから、そのあたりはきちんと考えるべきですよね。
それなりにアレなシーンや展開もありますから……。


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絵は、最近涼しかったので3話男子(ルリ君ヤマト君)にコート着てもらいました。

『剣』の刷り上がり楽しみだな~。
トーンいっぱい貼ったので若干心配ですが!

来週はついにスパークですか。早い。よろしくお願いします^^